昨夏母の先祖の菩提寺である兵庫県香住町の行基菩薩由来の大乗寺に墓参りできました。
円山応挙修行中の頃住職が支援をし、その御礼に長沢蔵雪など十名の弟子とともに百六十五画の襖柄を描き、それらはすべて国の重要文化財に指定されています。
先祖に偉いお坊さんがおられ顕彰の石碑が立っていました。
ちなみに、家内の祖父も新潟市の修行僧のいる円通寺の住職でした。
そうした私が今政治の道にいるのは、故Mさんの影響が大きいと思います。
左翼新左翼が入り乱れていた大学時代、私は児童文化班に所属し、地域で子供会を開催し
人形劇や影絵などを演じていました。
友人と話し合って、普通の学生生活を取り戻したいとの想いで、ガリ版でチラシを作って配り始めました。
マルクス主義全盛の時代で、私も一年の夏に、『資本論』を一応読みましたが、よく理解できませんでした。当時新左翼系の学生に人気の先生がおられ、私もその授業を受講していましたが、どうにも納得がいかないので、授業中に手を上げてその旨を述べたところ、先生は翌週の授業は休講にするので、反論を考えておくようにと言われました。
翌々週の授業の冒頭、反論を述べるように言われたのですが、そんなことはできるはずもなく「すみません、反論できませんが納得できません」というと教室内に嘲笑が起こりました。
学生時代も少数派でしたが、それ以降もいつも狭き門を選んできたような気がします。
二十四歳で結婚し、二十七の時に娘が生まれました。
名前は「療原の火」の「燎」とつけました。
「星々の火を似て原を焼くべし」(どんな小さな火でも野原を焼きつくすことができる。その時にたとえどんなに小さな真実であっても、それが真実であれば必ず世を得ることができる)との想いを込めました。
四十二歳の時に、参議院選挙に立候補し落選した後、職を辞して仙台に戻ってきました。藤沢市にあった家を処分し、そのお金で六年間を食いつなぎました。
「猿は木から落ちても猿だが、政治家は選挙に落ちたらただの人」と言われますが、それは嘘です。普通の人以下だと思います。普通の会社にはなかなか勤められないし、家族にかける迷惑は並大抵のものではありません。
「運動」は「自ら人様の所まで足を運んでその人の心を動かすものだ」という先輩の教えを守り、とにかく歩きました。最初は二万件以上、年老いた最近の選挙でも一万件以上を目標にしています。
「お世話になっています」と言えば、「お前なんかお世話した覚えはない」と言われ、下唇を噛む毎日だったと思います。
平成七年に宮城県議会選挙で当選し、お陰さまで五期目になります。
国家は国民に選挙された衆議院議員によって総理が選出されますが、地方自治体は、首長と議員が別個に選出されますので「二元代表制」と言われます。
宮城県議会議員の役割は①県民に選ばれた知事が県民の望む政策を行っているかどうかを監視すること、②私たちの税金が無駄なく使われているかどうかをチェックすること、③そうでないときは自ら政策を立案したり、議員提案条例として実現すること、④県民のくらしに関わる問題を国政、県政、市制につなぐパイプ役となることだと考えています。
5千名を超える優秀な執行部と対峙しつつ政策提案するためには、執行部から与えられた資料では話にならないし、政令市の県議会議院は、政策に強くならなければ価値がないと考え大学院に入ることにしました。今では珍しくない社会人入学のはしりでした。
入試は英語と論文と面談だったので、英語の勉強に一年かけました。
その後、大学院修士課程、博士課程と進み、二回の選挙を挟んで十年かけて博士号を所得することができました。
その頃から午前一時前後に起きて勉強する習慣ができ今も続いています。
「人は縁ある処を守れ」と言われます。
仏教で言えば「一隅を照らす」、キリスト教では神から与えられた仕事という事で「コーリング」、神道では任務の「任」と書いて「よさし」と言うそうですが、今の境遇に感謝しつつこれからも努力していくつもりです。